未生流の創流は江戸時代の文化・文政と呼ばれた時代で、約200年の歴史があります。
流祖一甫は1761年(宝暦11年)幕臣山村家に生まれ、若くからいけばなを好み、色々な流派を学ばれました。その奥義を極めた後、関西・九州・山陰など諸国を行脚し、研鑚を重ね、いけばなの哲学を体系化し、構成理論と技法の基礎を(挿花百錬)や伝書七巻にまとめて未生流をとなえたのです。その中にはいけばなを単なる遊戯とするのではなく、人倫の道への思いを寄せ、自然の偉大さを知って草木の素直な性情のように人間もあるべきだという、いけばなを通して人の道のあるべき姿を説いています。
諸国を行脚した流祖には色々な後援者がいた訳ですが、そのような人達の勧めで、大阪斉藤町に居を定め、未生流家元として門戸を張り、一甫の名は大いにあがり「日本華道中興」として天下にうたわれました。が老年に至り、失明し、高弟の上田広甫に、未生斎の号をゆずり、自らは未生庵と改名しましたが、派手好みな広甫とは成すことが相反することが多かったようで、随身2・3名を伴って自分のいけばなを広める旅に出ましたが、途中、1824年(文化7年)64歳で世を去り、大和天理市の大興寺に葬られました。(この墓は勿論現在もありますが、当流がお守りしています)
その時の随身であった、山村凌雲斎(三代未生庵)等は流祖の死を神戸兵庫の高弟達に知らせ、旧知の兵庫の人たちの協力で、清盛塚の近所に「挿花宗匠、未生翁の墳」の巨碑を建てました。(これは今日兵庫区、真光寺にありますが、毎年十月九日の流祖の命日には、当流で追善法要を盛大に行っております。)
そして流祖の娘がその遺志を継ぎ、二代目未生庵一甫を復名し、以後、代々未生庵一甫を継承して九代に至っております。
盛花・瓶華は明治から大正にかけての時代思想や生活環境から生まれでたもので、俗に言う様式生活の発展とともにいけばな芸術として造形的に追求され洗練されてできたもので洋花の扱いに適したいけばなです。八代家元は今までの格花に合わせてとりいれられました。
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